節子、大後悔の海

ume3 やっと書ける話

春が来て、節子は高校を卒業しました。

進学も就職もせず、家事手伝いをしています。家事全般が滞りなくできるように、一年間あやさんにくっついて教えてもらうのです。

父が学校に出向き、担任にわたしの進路を伝えたそうです。何も聞かされていなかったのでびっくりしたけど、大好きな先生と会える時間が取れるので、それでいいと思いました。

先生とは相変わらず人目のないところで会っていました。

夏が過ぎるころから、先生は元気のない日が増えていきました。気分が沈むようで、元々寡黙なのに更に言葉少なくなっていきました。それでも、会うことをやめるとは言いませんでした。

人生について深く考え、苦しんでいるようでした。わけを話してくれなくても、ずっとそばで寄り添っていようと決めていました。

年が明けてからだったと思います。しばらくぶりに会った先生は苦しそうにこう言いました。

「もう生きていたくない。一緒に来てくれないか」

たいして驚きはしませんでした。なんとなく、こうなるんじゃないかと思っていました。先生がわたしに望むたった一つのことがそれなら、どこまでも一緒にいくと強く思いました。

先生がおおよその仕事の始末をつけた次の日、ふたりで行くことにしました。

梅の香る早朝、誰にも見つからずに裏木戸から家を出ました。

遠くのバス停からバスに乗って海へ。風の強いとても寒い日でした。

bus

バスに揺られている間に日が暮れました。白く曇った窓ガラスの向こう側は、もう真っ暗で何も見えません。

目的地のバス停で降りて、先生と手をつないで歩きます。月のない夜です。ビュービューという風の音に混ざって、叩きつけるような波の音が聞こえます。

寒くて手足の感覚が消え始め、足元も見えないような暗闇を歩いている。怖いと思いました。つなぐ手に力が入ります。

先生が立ち止まった場所は、まわりは見えなかったけど、足の下は平たい岩でした。下の方で叩きつける波の音が聞こえます。

耳のそばでキュルキュルと風を切る音が聞こえます。強風で体を持っていかれそうで怖い。思わず先生にしがみつきました。先生はぎゅっと抱きしめてくれました。

その瞬間、風の音も波の音も全部消えて無音になりました。

ほっぺたに先生のツイードコートのザラザラした感触があります。先生の匂いがします。

ぽわんと少しだけ明るくて温かくて、何も怖くなくなりました。幸せで幸せでたまりませんでした。ずっとずっとこのままがいい。

areru-umi

先生が腕の力を少し緩めたとき、突風が吹きました。わたしは無意識でバランスを取ろうと、一歩足を出したと思います。その時はもう、岩場から落ちていました。ひとりだけで。

岩場に四つん這いになって、何かを叫ぶ先生を見た気がします。

溺死ではなく、海水の冷たさで心臓が止まりました。

先生は、後を追いませんでした。

よかった。

ここはどこ?暗い。こんなに暗くて寒いところはいや。そう思いました。すると先生の映像が見えました。

スライドがパシパシ高速で切り替わるように、この先の先生が何枚も写っていました。

職を失い、心中の生き残りと言われ、父からは罵倒され、職もなく、生活が荒む。でも奥さんは別れなかった。世間体のためと、夫を一生責め続けるために。

ちがう!あれは事故なのに!

ああ、わたしは取り返しのつかないことをしてしまった。一緒に行くことを選んではいけなかった。先生を命がけで止められたかもしれないのに!ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!

暗闇の中で号泣していると、弱い光を感じました。その光は少しずつ強くまぶしくなって、わたしはゆっくりとその中へ吸い込まれていきました。

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