一昨日発生した能登半島の地震。被害の状況が明らかになるにつれ、命を落とされた方の数が増えていき、何とも言いようのない気持ちになります。
体を離れてしばらくの間は、ここに留まることもできそうなので、まだそばにいらっしゃるかもしれません。残してきた家族を優しく抱きしめておられるような気がします。
被災されて、今なお余震が頻発する中、今日明日生きることが精一杯だとお察しします。早く普通に眠れる夜を迎えられますよう祈っています。
必要なところに、確実に役立ててもらえる支援金の送り先はどこなのか、調べる必要がありますね。
2024年1月1日16:10 私の住む大阪でも長い揺れを感じました。
その時の様子を忘れてしまわないように、メモしておこうと思います。
その時、1日のブログの予約投稿を終えて、まだデスクの前にいました。すると南北方向へ、はっきりした横揺れを感じました。ゆらゆらと酔いそうな揺れでした。
この揺れ方は近くじゃないと直感しました。どこや?震源地を追おうとして、そんなことしてる場合じゃないと我に返り、揺れながら廊下に通じるドアを開けに行きました。
揺れ続ける地震に、これはなんか大変なことが起きていると感じました。トイレのドアも開け、玄関ドアも開けようかと迷っているあたりで、やっと揺れはおさまりました。体感は震度3ぐらい、2分近く続いたと思います。
その間に、お正月休みで家にいた息子が地震情報を探していました。震源地は能登半島のようでした。すぐに津波警報も出ました。早く逃げてと強く念じることしかできませんでした。

のと鉄道能登線の終着駅、蛸島です。珠洲市にあります。
2005年3月いっぱいで能登線は廃線になりました。七尾線は現在も頑張ってます。
この写真は2004年12月、最初で最後の乗車時のものです。もう20年も前という驚き。

能登線のトンネルには名称の他に、識別のため、いろは48文字がひとつずつ付けられていました。
確か49番目のトンネルだけは「すず」だったと思います。数字とかじゃなくて、「いろは」というのは珍しくないですか。
ご覧の通り、静かでのんびりした雰囲気のところでした。当時、仕事と家事でいつも疲れていた私は、頭がからっぽ、心は凪になることができました。
輪島方面へは、もっと前に廃線になっていたのでバスで向かいました。テスト期間中だったのか、地元の高校生たちと一緒でした。バスはカーブの多い山道を美しい棚田を縫って走りました。
ずいぶんと長い通学距離だと驚いたのを覚えています。でも高校生たちは、おしゃべりしたり、音楽を聞いたり楽しそうでした。

能登半島の北側は、風が強く冷たく、波の花がフワフワと舞っていました。
歩いている人なんて誰もいなくて、というか人自体いなくて、ちょっと心細かったのを思い出しました。
崖の上から海へ注ぐ、垂水の滝は絶景でした。

どこかの駅の待合室では、電車待ちのおじいさん・おばあさんが、まだ発車時刻まで40分もあるのに集まってきてました。みんな顔見知りで、近況報告や体調の話に花が咲いておりました。
じぃじ、ばぁばにはオロナミンCが大人気みたいでした。みんな売店で買って、おいしそうに飲んでました。
旅人の私は、「40分も待つの?はぁ〜」って、ぜんぜん楽しめてなかったのにね。
人がいるところには暮らしがあって、人と人との繋がりがあります。
時間はかかるだろうけど、当たり前の日常を当たり前に送れる日が早く来ることを、祈らずにはいられません。
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