スーパーまでの道のり、どこからかフワッと金木犀の香りが漂ってきます。あっ、と思って振り返ると、そこに金木犀はなく、色づき始めた名前を知らない木がありました。
9月いっぱいまで夏だったのに、いつの間にか秋も半ばにさしかかっているようです。
出雲行きを前に古代出雲人を知るにつれ、驚くようなことばかりです。
何も知らない自分に愕然とします。
もともと日本史も世界史も興味がなく、高校時代はただテストの点のためだけに暗記していました。解答用紙を埋め終わった瞬間、全部忘れました。それはもう、怖いほどきれいサッパリと。
そんな人ですので、一般教養的な知識すらもないんです。
それにしても昔の人はいくつもの名前を持っていたんですね。同じ人の名が書物や時代によって違ったり、名前かと思ったら役職名だったり。
脳みそパンパン、目はショボショボになりながら、わかったことを書いておこうと思います。
偶然ではなかったかもしれない転居
もうすぐ今の家に引っ越して1年になります。転居については過去にブログに書いていますので、よかったらお読みください。① ②
今いるところは京都と大阪の間にある、昔から「三島」と呼ばれるところです。出雲口伝によれば、このあたりは8代目事代主(少名彦)が亡くなった後、后の1人である溝杭姫(活玉依姫)が、3人の御子を連れて移り住んだ場所だそうです。三島は溝杭姫(ミゾグイヒメ)の出身地です。約半数の出雲の人々も一緒に来たそうです。
そこで田畑に水を引き込むための水路の作り方を地元の人に教えるなど、三島の農耕に尽力されたということです。賢い人だったのですね。
当地には三島鴨神社があり、御祭神は次のとおりです。
- 鴨事代主神
- 大山祗大神(おおやまつみ)
- 木花咲耶姫大神
大山祇は大山=ダイセン(山) でクナト大神、木花咲耶姫は溝杭姫では?という説がありました。私もそうだと思います。今住んでいるところ一帯は出雲の人々が暮らしていたのです。
確かに、この土地の上にスコーンと抜ける感じと、京都出雲路と島根出雲の抜け感の心地よさは似てる気がします。奈良の三輪にも共通する感覚があります。
私はここを偶然見つけたと思っていたけど、そうではないのかもしれません。
もう一つの三島
実は三島鴨神社を知ったのは、静岡県三島市の三嶋大社を訪れてからでした。
たぶん5、6年ぐらい前だと思いますが、8月の終わりに訪ねたことがありました。例のごとく夏バテで、水の気に触れたい、新幹線こだまに乗りたい、と突如思い立ったのです。2つの希望を叶えられるのはどこかな?と探して決めたのがこだま停車駅、三島でした。
三島駅を出た瞬間から水の気を感じました。駅前はこれから富士山へ向かうグループ、富士急ハイランド行きの若者で賑わっていました。
富士山が近いだけあり、水は豊富で、街中を流れる川もきれいでした。至るところに水の流れがあるのです。
生まれてはじめて、川の中をお散歩しました。
癒やされるとはまさにこのことです。
また隣の清水市の柿田川公園も、とても素晴らしいところでした。
湧き水天国とでも申しましょうか。癒やされるとはこの(もういい)
当時の写真が見つからなくて、フリー素材からお借りしています。
三嶋大社にも参拝しました。
御祭神
- 大山祇命
- 積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)
ここでも雨女あるある発生。
ご本殿目前でポツンと雨粒が落ちてきて空を見上げると、晴れていたはずなのに曇っています。雨粒は見る間に大きくなり、ザーッと強く降り出しました。たまらず近くの軒下に駆け込みます。周りの皆様もご一緒に雨宿りです。
雨はますます強くなり、水煙が風景を白く隠します。不覚にも「きれいやな」と思ってしまいました。本来、周りの方に申し訳ないんですが。
ほんの数分後、急に眩しい太陽が差してきて、あっという間に雨は止んでしまいました。
傘を出す間もない、ほんのひと時の出来事でした。
強制禊ぎ祓いなのでしょうか。私はよっぽど汚れてるのかと思いました。
元々、自分には水の気が合うようで、三島は大好きな土地になりました。
帰ってから三嶋大社について見ていくうちに、三島鴨神社からの勧請だと知りました。
「へー、そうなんや〜」
当時はただ、そういう感じでした。
あちこちに出雲人わらわら
今回の出雲行き計画の発端は、父方の祖父Y太郎が養子に来る前の苗字「多賀」でした。
加えて、夢で私が知らない苗字で「多賀すみれ」と呼ぶ声と。あと外宮の多賀宮のハテナ。
多賀大社→クナト大神→出雲→出雲口伝
口伝によると出雲の人たちは戦を好まなかったようです。征服をのがれ、国を明け渡し、民を連れて移住しました。
静岡三島へは大彦(ナガスネヒコ)の息子であるタケヌナカワワケと摂津三島にいた出雲人が移住し、国を開いたといいます。御祭神勧請の理由です。
出雲より、摂津の国・三島へ
駿河の国・三島へ
越の国・北陸へ
奈良・大和へ
東北へ
京都へ
それぞれの地で王国を築き、土地の繁栄と、民の生活向上に貢献したようです。
神宝はあれど、真の神宝は出雲の民だったのかなと感じます。
でなければ、溝杭姫が三島へ帰ってくるとき、わざわざ全人民の半分を連れてくるなんてことしないでしょう。自分たちだけ、王家だけ助かればよいとするならば、そうはならないはずです。
そうなると日本中に相当な数の、出雲ルーツの人々がいることになります。書き残されたものは何もないけど、私もそのひとりなのかなと思います。
いまここ三島
三島鴨神社の溝杭姫は、東出雲王家(富家)の八代目事代主の后だそうです。当地には「富田(トンダ)」という地名があり、富家の富という字からそう呼ばれるようになったとか。
引っ越してくるまではまったく知らなかったのですが、大小の古墳の密集地でもあります。
中でも今城塚古墳は継体天皇のお墓と言われています。ですが、宮内庁が先に太田茶臼山古墳を継体天皇陵と認定してしたため(引っ込みがつかなくなって)、現在いこいの公園となっています。
控えめに言っても、かわいいですよね。
小さいお子さんが跨がろうと短い足を振り上げておられました。気持ちわかります。
出土した場所に原寸大レプリカ埴輪のみなさま。祭祀をしているところだそうです。
先頭の巫女は両手を天に掲げ、斜め上を見ています。
彼女の視線の先には
阿武山という山があります。古墳自体も山の方を向いています。
三島に移り住んだ出雲の人たちが、神奈備山としたところだそうです。
奈良の三輪山みたいな感じでしょうか。
継体天皇は大和朝廷に請われて、蘇我王国から大和入りしたとあります。蘇我は出雲系です。大和にいた天皇がなぜ摂津の三島に埋葬されたのかというと、そこが出雲の流れを継いだ土地だからでしょう。
また阿武山には中臣鎌足が埋葬されたと推測される(ほぼ確定)、阿武山古墳があります。
藤原の祖となる人物がなぜ出雲系の土地に?と不思議でした。調べてみるとややこしくてよくわからないなりに、出雲系鹿島から中臣家へ養子に入ったらしいとわかりました。鎌足の先祖には事代主と溝杭姫の娘、タタラ五十鈴姫がいました。
どうも摂津・三島には出雲に関係する人たちが集まってくるようです。私もその1人なのかもしれません。
出雲にはそれだけの引力が何かあるのだと思います。
次の出雲行きは新しい視点で、行ったことのない場所に行ってみようと思います。
そうそう、婦人会の旅行(仮)ですのでね。何か美味しいものもいただけたらいいな〜と期待しています。
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